DIALOGUE

禅対談

02

新井励

臨床心理士

心も身体の一部です

禅ボディワークとは

新井 普通は心と体を表す時「心身」と書きます。心が先で次に体なんです。でも、藤井先生は違いますね。「身心」と表記して「身」が先です。そこがすごく興味深いのですが。

藤井 なぜ「身」が先かというと、生きているからです。身体がなくなってしまえば、仏様になっちゃう。仏教においては、仏様になっちゃえば、悟りを開けちゃうんです。 日本の人ってどちらかというと考えすぎなんです。考えすぎというのも、どう考えすぎるかっていうと、自分を考えすぎているのではなくて、他者の目を考えすぎている。比較とかしすぎなんです。自分というものの広さと深さを、もっと知って欲しい。それを知るためには、心では知ることが出来ないと私は思っているです。やっぱり身体を知ることで、自分自身の心を深く知りえる。 日常生活でジタバタしながら身心は動いている。禅ボディワークをすることで、もっと自分自身の身体が素晴らしいものなんだと気づき、それによって自分は生きているし、生かされているんだと気づいてほしいんです。 禅ボディワークは、身体における自分との対話です。それによって生きる安楽ができる方を増やしていきたいと思います。そういうコミュニティいわゆるサンガが、いろんなところにできて広がり、最終的にはその広がりによって、日本の社会が平和になってゆき、さらには世界が平和になっていくと、私は信じてやっています。

出来ないことがダメじゃない(修行をして悟ったこと)

新井 気になるけどよくわからないのが、「悟り」「気づき」というようなことです。仏教にしかない概念だと思うので、ぜひお話をお聞きしたいのですが。

藤井 悟るっていう概念は、仏教しかないですね。仏教におけるちょっと特殊な概念だけど、皆が追い求めたがる。 私は寺の生まれですけど、すごく小さなお寺で法事や葬儀を生業にしていなくて、父はお寺に住みながら銀行員だった。私自身も、大学では水産学部っていう学部だったんです。

新井 そうですか。

藤井 ですから、若い頃は「悟り」とゆう概念自体はそれほど追い求めてなかったんです。 大学に入ってよくある青春の悩みとか苦しみを経験し、不幸とは何だろうかとか、安心とはなんだろうということにぶちあたった時には、まず西洋哲学の本を読み漁った。でもどこか私には合わなかったんです。 そんな時、小学生の頃から腰痛持ちだったとゆうこともあって、腰痛が解消されたら幸せになれるんじゃないかと思ったんです。体の苦しさの解消と、自分の精神や人間関係を幸せにするということが合致するものは何だろうって考えたら、禅だったんです。 禅ってゆうのは坐禅という身体の形であり、それによる精神的な移り変わりによる修行だということを見据えて「あっ、これだな!」って思ったんです。 そしたら、私の実家のお寺が禅宗だったっとゆうことなんです。 そこで、全然興味もなく行きたくもなかった修行に、物凄く行きたくなったんです。それは知識だけでは何も変わらないと思ったからです。修行に行ったら変わるんじゃないかと思いました。もっと良い自分、もっと幸せな自分に、変化するのだろう、変化させてくれるはずだと思って行ったんです。 そしたら、全然違った。 禅の修行は、毎日同じことしかしないんです。それもほとんど喋らずにやる。言葉が無く、色んなジェスチャーや、色んな音、その違いによって次に何をするのか全部決まっているんです。 その修行を、何かが変わるだろう、幸せな自分になれるだろうと思って頑張ってやってたんです。 しかし、変わらなかった。逆に変わらない自分がいるということがわかった。いつまでたってもダメダメな自分が居続ける、これは一生居続けるものなんだ、そういうことに気づいたんです。そしたら楽になった。

新井 ダメダメな自分って仰ってますけど、ダメダメ度では私もかなり負けないつもりです。藤井さんのダメダメな自分ってなんですか。

藤井 それは、覚えるのが遅かったり、皆がパッと気づけることを気づけなかったり、坐禅をしててもすぐ眠くなっちゃうとか、本当にきりがないんです。今でも本当にダメな人間だなって思ってます。 でもそこで、何が変わったかというと、ダメダメな自分を悟ったっていうことです。悟れないことを悟ったということ。 ダメな自分を悟ったことで、毎日の社会生活で、出来ないことがあった時に、出来ないことがダメと思わなくなった。出来ないイコールダメじゃない。出来ない自分が自分であるということを、坐禅から知ったということですね。

安楽の法門とは

藤井 道元禅師の書いた「普勧坐禅儀」という坐禅のお経の中に書いてあるんですが、実は坐禅とは悟りに向かう為に行っているものではないのです。それが「安楽の法門」です。安楽っていうのは安心で楽しいという言葉ですが、いわゆる幸せな状態に近づいて行くことが安楽ではなく、坐禅をしているその状態が既に安楽ですよ、と書いてあるんです。 もう1つ、道元が別の文献で、悟りというのは1回起きて終わりじゃないと言っている。悟りというのは、常にあり続けるものだと。どこまでいったから偉いとか、そういうことは元来ないと道元は言ってます。 この2つの内容を自分の修行自体に発想転換したところ、「出来ないことがダメ」じゃないということが確信に変わりました。

心も身体の一部です

新井 カウンセリングで一番多い問題に、友人関係や家族の問題があるんです。 その関係を保つために、相手に合わせることで、なんとかバランスを保っているわけです。自分の中で思う気持ちを抑えていたり偽っていたり、そういうことで苦しみをかかえているということは、よく起きてることだと思うんですね。 そういう中で、自分を受け入れることであるとか、相手を許すことができるといいなあとは思うのですけど、すごく難しいところだと思うんです。藤井さんはどうお考えですか。

藤井 大事なのは、許せなかったりしても、それでいいじゃないかなと思うことです。私自身も人間なんで、合う人と合わない人、コンチクショーと思う人もいなくはないです。 しかし、許そうとすること自体が、我なんです。傲慢なことで、許せない自分がいるということ自体を、まずは受け入れてしまう。 でも、それを受け入れられないのだったら、逃げてもいいと思うんです。 逃げる方法はいくつでもあります。私の講座に来てリラックスする時間をもったりするのも一つの逃げる方法です。 私は心の問題は心だけでは解決できないと思ってるんです。体とかかわっている。さらに、知識と組み合わさった心というものでは、絶対に心だけでは対処できないと思っているんです。 自分の身体や行動と向き合ってみる。そこで、身体、行動が安らかになる方向を試していくことによって、自分自身を知ってゆく。

新井 考えるだけじゃなくて、身体の感覚を利用するということですね。

藤井 そうです、心も身体の一部と考えて、体と向き合うことを試みるということですね。

新井励

i Presence Consulting 代表 資格:臨床心理士 産業カウンセラー
うつ・不安・パニック・トラウマケアに対する多くの心理療法を行う。
EMDR、ブレインスポッティング、タッピングTFT、等の新しい心理療法を使って患者の治療を行う。 北里研究所メディカルセンター病院でカウンセラー。その後、筑波大学附属病院で臨床心理士として勤務。現在、独立し訪問での臨床心理療法やオンラインでの動画カウンセリングなど新しいスタイルでの治療に取り組んでいる。

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